あれはぼくのおじいちゃんが亡くなった次の年のことだったろう。
確か高校二年生の秋の日のことだったと思う。その日曜日になにをするでもなく自転車を乗り回して
いたぼくは、坂の途中にある斎場(ぼくたちはふだん「焼き場」と呼んでいた。)の前の広場にひとりで
自転車を乗り付けた。斎場といっても島のことだからそれこそちっぽけな焼き場で、周りはコンク
リートの塀に囲まれてはいたが誰でもその小さなセメント敷の広場には出入り自由になっていた。焼
き場の広場でなんの気なしに自転車をぐるぐる乗り回していたぼくも途中で飽きてきて家に帰ること
にした。
家に帰るには坂道が二本あった。ふだんは使わない坂道を通って帰ることにしたぼくは坂道を下り
はじめた。その時になぜかブレーキを使わないでおりてみてやろうという考えがふと頭によぎって、く
ねくねと曲がりくねった急な坂道をブレーキをかけずに下りはじめたぼくは、今考えてもどうかしてい
たと思う。最初はそれ程でもなかったスピードも坂の最後のあたりでは相当なスピードになっていた
のにその時のぼくは怖いと思わなかった。そのまま坂を下り切れるようなスピードでも、曲がり道で
もなかったのだ。だから最後のカーブを曲がりきれるわけもなかったぼくの自転車は坂を踏み外し
崖の下にころげ落ちた。
落ちて行く時にスローモーションのように自分の身体の軌跡がわかったがぼくにはどうしようもな
かった。ぼくは道の端に右のこめかみを打ち付けて下の崖に転げ落ちた。自転車に乗ったままだっ
たから全体重と全スピードがそこにかかって、普通なら頭蓋骨骨折は当たり前の状況だった。
それなのに、ぼくはなんともなかった。確かに道のコンクリートの端で打ち付けたはずのこめかみに
はかすり傷程度はあったかもしれないがほんとになんともなかったのだ。崖の下のやぶから自転車
を引っ張りあげながら、ぼくは『まもられたな』と思った。焼き場で遊んでふだんでは考えられないよう
なわけもわからないスピードで降りたこともおかしなことだったが、崖から落ちてこめかみをしたたか
に打ち付けてなんともなかったことはそれ以上に不思議なことだった。
でもその時はそれをひどく不思議にも思わず、ただ『守られたんだ』と感じた。秋の草が生い茂って
いる道を自転車を押しながら歩いた。
「死んだおじいちゃんに守られたのかもなあ。」「でも確かに守られた。守られたんだ。」とずっと思い
ながら歩いていると、右腕が突然異常にだるくなってきてそれがしばらく続いた後うそのようにその
痛みも消えた。
それから命に関わるようなことは一度も経験していないが、どこかで自分を守ってくれている存在が
あることをぼくはその時から信じられるようになった。
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