2011年5月16日月曜日

風知草:原発に頼らぬ幸福=山田孝男

風知草:原発に頼らぬ幸福=山田孝男

浜岡原発停止の電撃発表に怒った日本経団連会長が「首相の思考過程はブラックボックスだ」と毒づいた。では聞こう。原発推進を探る専門家集団の思考過程は透明と言えるか。

 毎日新聞は「モンゴルに核処分場計画」を特報した(9日朝刊)。米エネルギー省と日本の経済産業省が組み、モンゴルに使用済み核燃料などの国際的な貯蔵・処分施設をつくるという極秘計画を暴いた。

 この構想は原発ビジネスと経産省が入れ込み、外務省は乗らず、しかも露見した。バレた以上は立ち消えということらしいが、ああそうですかと聞き流すわけにはいかない。このような専門家の思いつきと、浜岡を止めた首相の思いつきは、どちらが罪深いだろうか。

 用地提供の見返りとして、モンゴルは原発をつくるはずだった。日米の技術支援で。このしくみ、過去半世紀の日本国内の原発立地と似ている。福島県の双葉町が、電源3法交付金と引き換えに原発を引き受けた構図とそっくりである。

 当初こそ双葉町は開発特需で潤った。農林漁業がすたれて建設業が伸びたが、原発始動から38年後の09年、財政悪化で「早期健全化団体」に指定され、町長は無給。揚げ句に原発震災で土地をまるごと失い、町民は四散、流浪している。

 原発も、使用済み燃料の処分場はなおさら、制御が難しい高レベル放射性廃棄物を抱えている。モンゴルの原発建設予定地は無人の荒野ではない。数十年後、草原の村に「××、土下座しろ」と悲憤する住民の罵声が響く恐れはないか。

 いかな「原子力村」エリートであろうと、3・11を見てなお、それに想像がおよばないということはありえまい。

 俗に言う原子力村とは、経産省、特殊法人、電力会社、原子炉メーカーなどにいる、主として東大工学部原子力工学科卒のエリートの総称だ。

 反原発急進派に言わせれば原発利権をむさぼる悪党一味だが、そういう悪口を並べても、原子力エリートはギャフンとは言わない。自前のエネルギーを確保して国の独立を守り、安定的電力供給で国内総生産(GDP)を押し上げ、経済大国の発展を支えてきたという強烈な自負があるからである。

 この視点に立てば、「モンゴル核処分場計画」も思いつきではなく、国策の追求ということになる。が、3・11を経たいま、原発ルネサンス便乗の「経済大国再び」路線の国策は問い直さなければなるまい。

 浜岡原発の全原子炉が止まったが、核燃料の冷却は今後とも続けなければならない。危険は去っていない。福島は好転するどころか、日々、悪材料が噴き出している。原発は怖いと思い知った素人の過剰反応とは言わせない。それでも安心と言いつのる専門家の過信こそ不思議と言わねばならない。

 なるほど、経済大国路線の転換は容易ではない。問題が大き過ぎる。なまじの節電や半端な代替エネルギーでは実現できない。だが、放射性物質による環境汚染を免れるためには、変わるしかない。原発に頼らない幸福を探すしかない。

 「絵空事」と原子力エリートは笑うだろうか。ならば「それでも原発」の説得的な説明を聞こう。専門家は「脱原発」「反原発」勢力を愚民視する悪癖をあらため、大衆的な議論の場に身をさらすべきだ。もはや民衆の理解と共感のない国策こそ絵空事である。


この毎日新聞のコラム氏の言うとおりだと思う。

3.11を経験した国民の代表的な意見ではないか。

この期に及んでもなお原発推進を進める根拠はどこにあるだろうか。

そんなものはどこにもない。

痛みを伴っても、原発から脱していくべきだ。

これは世界の趨勢だ。

ましてや日本は3.11を経験し、

なお福島原発の不安要素を抱えたままなのだ。

原発推進派はこれにどう答えるのだろう。

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