2011年4月9日土曜日

百姓の足、坊さんの足

ごんぎつねで有名な新美南吉の童話で、

ぼくがこどもの時に一番好きだった話。


米初穂で寄進の米を頂きにお百姓の菊次さんと

和尚さんが檀家を回りに出かける。

一日廻って、遠くの谷に着いたときに日が暮れ、

一軒の家で勧められて酒をごちそうになる。

すっかりいい気分になった二人はさらに谷の奥に

一軒回り残した家があったのだが、

もうやめにして帰ることにする。

山道を越えなければならないので二人は先を急ぐ。

すると後ろから呼び声がした。見るとその家のお婆さんが

ふうふういいながら追いかけてくる。

寄進するお米をもって来た。

ありがたく受け取ったお米だったが、米を入れる籠が一杯で

升のまま籠に載せて歩くうちに、山道でうっかりよろけて

地面にぶちまけてしまう。

わっと叫んですくい上げるが、土が一杯混ざってしまう。

すると酔った勢いで和尚さんがこの米はいらないと米を地面に

あけて踏みつけて蹴散らしてしまう。

これでもうわからなくなっただろうと。

菊次さんも思わず足を出していっしょに米を踏みつけてしまう。

さて、菊次さんには年老いた母親がいて、いつも母親は米は百姓の命、

米を粗末にすると罰(ばち)が当たるといっていた。

菊次さんは母親に「この足で米を踏んだけれど罰など当たってない」

と豪語すると、母親は心配そうに「当たらぬといいがの」と足を見つめる。

菊次さんも意地になって「ちくりとも痛くない」と口にだした途端、

足にちくりと痛みが走って、見る見るうちに我慢できないほどの痛みになる。

米を踏んだ罰が当たったのだ。

どうしても痛みの去らない菊次さんだったが、

和尚さんも同罪のはずとばかりに和尚さんの様子をうかがいに寺に行ってみる。

しかし、立派な袈裟を着て、「一粒の米にも仏様がいらっしゃるからこぼしてはいけない」

などと説教を垂れる和尚さんの足はちっとも痛んでいる様子もない。

菊次さんは内心穏やかではない。

同じ米を踏んだのにどうして自分だけ足がこんなに

痛まなければならないのかがわからなかったから。

しかし、やがて菊次さんは、はたと思いあたるのだ。

和尚さんはいくら口で米は尊いといっても、

自分が土を耕して草を引き額に汗して米を作っているのではない。

一粒の米の中にどれほどの百姓の苦労が込められているのか、

実際には知らない。

それに引き替え百姓の自分は身をもって知っているはずだ。

その自分が米を粗末に扱ったから罰が当たったのだ。

菊次さんは初めて、心から申し訳なかったと悔い、

天にも地にも、母親にも、米をくれた老婆にも謝る。

すると、足の痛みは消える。しかし足は萎えたように力が入らず、

引きずって歩かなければならなくなった。

それでも菊次さんは痛みの去ったことに感謝して、

その後の人生をおごらず謙虚に生きた。

年月が流れ、ある日菊次さんは死ぬ。

同じ日に和尚さんも一生を終える。

死んだあとのふたりがどうなるかは

お楽しみということでここには書かない。


あらすじはざっとこんなものだったと思うが、

この話を繰り返し繰り返し読んだのはなぜだろう。

地獄,極楽という世界の不思議さ、して良いことと悪いことの区別、

人の生き方の根本みたいなものを感じたからだろうか。

子ども心をとらえてはなさなかったこの話を

もう一度読み直してみたい。

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