2011年5月3日火曜日

ベクレルとシーベルト

水素爆発、沸騰水型原子炉、計画停電、屋内退避……。東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故以降、連日、耳慣れない言葉が飛び交った。特に、テレビに映し出される原子力安全・保安院や東京電力の記者会見は当初、細かい数字の羅列が繰り返され、事態の混乱に拍車をかけたのではないだろうか。中でも、どこがどう違うのかがよく分からなかったのが、シーベルトとベクレル。最初から何度目かの会見が終わった後に不安感になって図書館に駆け込み、科学事典をあわてて開いていた。

 ベクレルは放射能の強さを測る単位で、シーベルトは人間が放射線を浴びたときの影響の度合いを示す単位。そして、二つの単位はともに、原子力研究に大きな足跡を残した科学者の名前からとったものだった。

 放射線の強さを測る単位のベクレルは、マリー・キュリー、あのキュリー夫人とともに1903年にノーベル物理学賞を受賞したフランスの科学者、アンリ・ベクレル(1852―1908年)にちなんだものだそうだ。ウラニウムが放射線を発することを発見したベクレルは、原子力研究の礎を築いた人物でもある。

 他方、人体に及ぼす放射線のダメージの度合いを表すシーベルトは、スウェーデンの物理学者、ロルフ・シーベルト(1886年―1966年)からとった単位名だった。そして、そのシーベルトが、放射線測定器を開発し、人類を放射線から守るためにその生涯をささげた人物だったことを恥ずかしながら初めて知った。

 「放射線防護の父 シーベルトの生涯」(ハンス・ワインバーガー著、考古堂書店)によると、第2次世界大戦後の東西冷戦時代、米ソを中心に核実験が繰り返されるなか、時代はシーベルトに極めて多忙な日々を強いたという。実験後に降り注ぐ「死の灰」という言葉が日常会話でも交わされ始めた当時、放射線防護の機運を国際的に高めるための活動に力を注ぐとともに、スウェーデンを中心に放射線観測拠点を作り、その観測の網を少しずつ広げていったという。そして、粘り強く重ねられたその努力は、彼の死から20年後に劇的な成果を挙げる。

 世界を震撼させた1986年のチェルノブイリ原発事故で、旧ソ連政府は当初、事故そのものを隠蔽しようとしたとされるが、シーベルトが構築した精緻な観測網がチェルノブイリから拡散する放射能をとらえ、事故の存在を白日のもとにさらけだした。放射線が人体に及ぼすダメージを示す単位に、シーベルトの名前が冠されてから7年後のことだった。

 放射能漏れが続く福島第一原発では、東電とその協力会社などの作業員による懸命の復旧作業が続いている。福島の事故の危険度は、今月12日にチェルノブイリと同じ「レベル7」に引き上げられた。政府は22日、半径20キロ圏内を警戒区域に変更して原則として立ち入りを禁じる措置を取った。不休で続く懸命の作業は、技術の国・日本の命運を握り、さらには世界のエネルギー政策も左右しかねない。「放射線防護の父」にちなむシーベルトの数値をにらみながら、懸命な努力がきょうもこの列島で繰り広げられている。

(2011年4月29日 読売新聞)

ベクレルとシーベルトが物理学者の名前だったとは

知らなかったよ。

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